暖かいテーブル


 人通りの多いメインストリートから一筋入った道に建つビルの中、煉瓦の階段を上った2階にその店はあった。カランとドアベルが鳴るガラスの扉を開けると、そこは小さなギャラリー。イーゼルには水彩画が飾られ、コーヒーカップやお皿には白いエプロン姿のちょっと太めのマダムが描かれていた。「いらっしゃいませ。」右手の奥から声と共にその絵から抜け出したような婦人が笑顔で現れた。上品な白髪をすっきりとまとめ、美しい姿勢でスッとした立ち姿は、いつも溌剌としていて若々しい。
「こんばんは。」と挨拶すると、後は何も言わなくても奥へと案内してもらえる。ステンドグラスの施されたドアの向こうは、こじんまりとしたレストラン。2人から4人掛けのテーブルが10組ほど並んでいた。暖色系の間接照明の室内にはピアノが一台と古いカップボードがあり、いくつかのワインのボトルや小物が、さり気なく置かれてあった。白と赤のチェックのテーブルクロスが掛けられたテーブルの上には、銀の華奢な一輪挿しにいつも生花が生けられていた。
暖かいテーブル  その店に最初に訪れたのは友人に連れられてだった。その際にマダムに紹介され、2度目の来店の時にはもう顔を覚えてくれていた。シェフは彼女のお嬢さんで、母娘とウエイトレスの3人で経営している店には、あちこちに女性らしい気配りがなされていた。食事の時にグラスに注がれる水からはほのかにレモンの香りがしたし、使われてる食器もシンプルな中に華やかさがあった。食事はフランス風家庭料理で、コース料理だけだったが、予約を入れる際に必ず「召し上がれない食材はありますか?」と尋ねられた。好き嫌いのほとんど無い私はいつもおまかせにしていて、期待を裏切られたことがなかった。店内が満席である事はなく、いつも他の客とはお互いの存在を意識しなくても良い距離にあり、食事を楽しみながらゆっくり会話をすることができた。次の料理を待つ間、マダムがテーブルへ来て、一言二言お話をする事もしばしばだった。私の仕事の話、お料理の話、他愛の無い世間話・・・。いつもにこやかに場を和ませる会話だった。思えば私がその店に連れていく相手は毎回違っていた。遠方から訪ねて来た友人、高校の同級生、職場の友人、大学の後輩など。私がその店へ誰かを誘う時は、落着いてゆっくり話をしたい時だった。まるで自分の家に招待するような、そんな家庭的な雰囲気がそこにはあった。何度か通っていると、マダムが「他のお客さんには内緒ですよ。」とウインクして大きなお皿を運んでくれる事もあった。白いお皿の上には綺麗に飾られた豪華なデザートが乗せられていて感激したものだ。アイスクリームもケーキも自家製で、季節感に溢れたデザートを味わいながら、美味しい食事と楽しい会話で過ごした時間が幸せな気持ちにしてくれた。

 あれは真冬の日の事だった。夜、仕事から帰るとポストに請求書やダイレクトメールに混じって一通の手紙があった。部屋のドアを開け、灯りをつけ、手袋を脱ぎながら白い封筒を開けた。それはあのレストランのマダムからで、直筆で書かれた手紙は、お店を閉店する事になったという内容だった。ご主人が入院され、看病とお店の経営の辛い日々を一年近くも続けられていた事を初めて知った。先月に訪れた時もいつもの明るい笑顔で迎えてくれたのに・・・。お店の手前のギャラリーに飾られた水彩画やオリジナルのカップやお皿に描かれたマダムはご主人の作品だった事を思い出した。病床のご主人を気遣いながら笑顔で接客を続けられていたのだと思うと胸が痛んだ。コートを着たまま部屋の中央に立ち尽くし、手紙の文字から目が離せなかった。「結婚パーティーはうちを貸し切って盛大にしてくださいねとお約束していましたのに果たせずにごめんなさい。」と書かれた最後の部分を読み、涙がこぼれた。次の瞬間とっさに便箋を取り出し、手紙を書いていた。その時の私にはそうする事しかできなかったし、どうしても何かを伝えたかった。今までの感謝の気持ちと私のあのレストランに対する愛情を込めて綴った。そして最後にいつかまたお嬢さんとどこかの街で小さなお店を再開されたら是非お知らせくださいと。またあの暖かいテーブルにつける日を信じて・・・。




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